ひろのさま。


西暦767年に生まれ、のちに天台宗を開いた最澄といえば知っている方も多いでしょう。


いま、その広野さんを制作ちゅうなのです。


彼は奈良時代の終わり頃、平安時代へ移りかわる激動の時代に生きたお坊さまです。


すごい人に決まってるよね。


教科書に載ってるくらいだし。


天台宗のHPに、12歳で近江の国分寺にはいり14歳で得度するとあったので、広野像の年齢設定を10〜11歳くらい、小学高学年くらいに想定することにしました。


まだまだ子供だな。


きっと賢そうでまじめくん、だよね。


という具合にイメージしております。


では、当時の風俗はどんなだろう?


広野くんが10歳頃は、まだ奈良が都です。

この頃はあまり風俗の参考になるものがありません。

井筒の風俗資料を探しても、見当たらないのが現状でした。


あるとすれば身分の高い人たちなど大人の装束が主で、まだ唐の影響色濃く漢服が基本となるようです。


じゃあ子供も同じようなもんかなー。


聖徳太子と二童子像という奈良時代の絵画があります。太子の両脇に立つ二人の童子を参考にすることにしました。


漢服をまといみずらに結ってくつをはいて立ち姿。

手はどうしよう?

何か持たせるのがいいかな?

迷ったあげくお経がいいような気がする。

だってマジメくんだもの。

そこで、はたと気がつきました。

勝手にマジメくんとか言ってるけど、彼の事は、何にも知らないのです。
なので、とりあえず何か伝記がないかなと探してみました。

ありました。
永井路子著  " 風と雲と"
本屋ではもう売ってないので、アマゾンで買いました。

すごいですね。
歴史小説家だけあって、当時の時代背景や人となりの性格づけなど、楽しく読ませていただきました。

小説の中の広野そして最澄も勉強熱心信念一途なマジメくんでありました。

ほのかな恋愛めいたものも何もない。

私の中では、それなりに美少年、賢そうな
一所懸命な人となりが表現できるかなと。

服装については、最後まで試行錯誤ですが、なんとかまとまってきました。

みづらも、ウチの仏師で若い女子Nさんにみずらをやってもらいました。
ちょうど髪も長かったので耳の上あたりでそれらしく結んでくれまして、頭のカタチもきれいなNさん、後頭部から襟足、首まわりも観察でき、一気に粘土での原型が仕上がってきました。

私なりの広野像になってきたかな?



これから制作する誕生仏の粘土原型です。


そう、生まれ出たその瞬間から、モノゴトは古くなっていきます。

仏像も例にもれずですが、経年したからこそ素晴らしくなってゆくのもまた、仏像でしょうか。

汚れや劣化もなんとも言えないアジとなって
より神秘的になられてる仏さまたちです。

ただ博物館などの施設に入ってしまわれると、文化財いわゆる美術品になってしまう事が少し残念ですね。

明るいところで前後左右観れるのはありがたいですけど。

お寺で大切に安置されている仏様に出会うとほっとします。

そういう意味では奈良など古くからある伽藍にきちんとおられるのって、すごいなぁと。

劣化していくことを止めることは出来ませんので、今残っている古い仏さまたちもそれなりにケアされてきたワケです。

特に木彫においては完全な姿で残ってるのは少なくて、間で誰かが修理しています。

よくあるのは、台座光背が後年のもの。
手指、持ち物などは、壊れたり失くしたりしやすいので、修理されていたりといろいろです。

テキトーな修理をされているのもあって笑って(ごめん)しまう事も。

一番悲しいのは、ほったらかされてばらばらになった仏さまでしょうか。


仏所では、新しい仏様をお造りすることが主ですが、お修理することもまた大切なお仕事です。

仏様はたいてい暗い奥まったところにおられるので、気のつかない間に思いのほか傷んでいるものです。

ネズミに齧られるなんてけっこうある事だし、木で出来てるので中が虫喰いになってたりと
黙っておられますが、ツライ状況になってたりするのですよ。

で、それぞれ事情に合わせてお直しをします。
中から納入物が出てきたり、内側に何やら墨で書いてあったり
当時の仏師の彫りあとの素晴らしさを垣間見る事は、お修理の面白いところでしょうか。

ばらばらになったパーツをパズルのように根気良く合わせて元の形に戻して行き
昔の修理が適当でない場合はやり直し
無い部分は作り、当たり前の元の姿に戻って頂くべく、持てる技術を駆使するのも仏師の役割です。

新たに彩色を施したり漆箔をした後、開眼をすませると、みちがえるようになったお姿に

これはどこのどなた?

と思うくらいパワーを取り戻し、また皆のために働いてくださるのだなぁと思うのです。

また少し古くなった感じが必要となれば、古色仕上げにするときもあります。

どこを直したんだ⁈

というくらい
直した事がわからないようにするのが仏師や彩色師の腕の見せどころかな。


偶然ですが、かねがねご依頼のあったお寺へ続けざまに行っていました。


片や京都 西京区の葉室山浄住寺


そして片や東京 江東区の龍徳山雲光院


全く場所も宗派も違う二つの寺ですが、不思議な接点があるように思いました。


浄住寺の縁起は平安時代9世紀に円仁(慈覚大師)の創建で常住寺と号していましたが、13世紀に公卿 葉室家の菩提寺として浄住寺と改められ今に至ります。


江戸時代初期に葉室頼孝が黄檗宗萬福寺の創建に力を尽くした鉄牛禅師に帰依した事により黄檗宗の寺となり浄住寺を再興します。


雲光院については、徳川家康の側室阿茶の局の菩提寺で出家した折の号 雲光院がそのまま寺の号とされ浄土宗のお寺として親しまれています。


全く別々のお寺としてお付き合いをさせて頂いておりましたが  浄住寺の少し変わったお姿の仏さまの事を調べた事がきっかけで

御水尾天皇をキーパーソンに、同じ時代に京の都で活躍した方々が浮かび上がってきたのです。


阿茶の局は徳川家康の側室ではあるものの正室を亡くした家康に取り分け寵愛にされ

才色を兼ね備えたうえ、武術にも優れ戦場にも参じ、秀忠の母がわりとなって徳川家に尽くした女性でした。


秀忠の五女和子が京の御水尾天皇のもとに入内される時も付き添い若い和子のために

朝廷と徳川家とをとり結んだのは他ならない阿茶の局の才覚があってこそと考えられます。


御水尾天皇は仏教の信仰篤く晩年にかけては明より来日した隠元禅師とも、親交を持たれました。

御水尾天皇の念持仏は隠元禅師が明から請来し、献じた釈迦牟尼像でした。


この仏像のお姿は浄住寺の本尊釈迦牟尼とよく似ており、異国の様式を取り入れた作風に、江戸時代らしい台座光背に安置させた独特の本尊さまです。


阿茶の局→徳川和子→御水尾天皇→隠元禅師→鉄牛禅師→葉室頼隆


二つのお寺のあいだに歴史に残るお名前のつらなりを目の当たりにした時、たった2日の間に私は400年前を旅した不思議な気持ちがしました。


雲光院 ここから


浄住寺 ここから


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